バッグの中身は、持ち主の人生を物語る。
そう言ったら、おおげさだろうか。パリで書店を営むローランは、ある朝、ごみ箱の上に置かれていた紫色のハンドバッグを拾う。暴漢に奪われ、捨てられたそのバッグには、携帯、財布、身分証など身元のわかるものは一切入っていなかった。
黒い香水瓶。金メッキのプレートがついた鍵束。スケジュール帳。化粧品やアクセサリーを入れた革のポーチ。ゴールドのライター。モンブランの黒のボールペン。リコリスのアメ。プラスチックのペアのサイコロ。女性誌から切り取ったと思われるリードヴォーのレシピ……ご存じのように、女性のバッグには、実にいろんなものが入っている。
とりわけ、彼を惹きつけたのは赤いモレスキンの手帳とパトリック・モディアノの小説『夜半の事故』だった。手帳には走り書きでとりとめない想いが記されていた。「私は人がいなくなった後の海沿いの散歩が好き。私は〈アメリカ―ノ〉という名前のカクテルが好き。私はミントとバジルの香りが好き。私は電車の中で眠るのが好き。私は人物の登場しない風景画が好き。私は教会の匂いが好き。私はベルベットが好き。とくに、パンヌ・ベルベット。私は庭でお昼を食べるのが好き。私はエリック・サティが好き。サティ全集を買うこと」。誰に見せるつもりもない無防備なつぶやき。エレガントな筆跡も想像力をかきたてる。
小説には著者のサインが入っていた。「ロールへ、雨降る中、私たちの出会いの記憶に。パトリック・モディアノ」。ローランは、彼女の名前が「ロール」であることを知る。サイン会もせず、書店主の自分でさえ小説を通して追いかけるしかない伝説の作家のサイン本を持っている、彼女は一体何者なのか。果たして彼は、わずかな手掛かりを頼りに持ち主までたどりつけるのか。
『赤いモレスキンの女』は、大人のためのロマンティックな恋愛小説だ。ローランは40代半ば。離婚歴がある。15歳になる娘のクロエもマルラメの難解な詩を好む、なかなかの読書家だ(父親をボーイフレンド扱いするクロエも、いかにもおませなパリジェンヌという感じで魅力的)。書店を開いたのは、うまくいってない自分の人生を変えたかったから。「拾ったバッグを持ち主に自ら返しに行く」という1歩間違えればホラーにもサスペンスにも転びかねない設定なのに、そこはパリ。大人の男女の偶然の出会いがとてもよく似合う。1冊の本と手帳が、図らずも恋の導火線になったというわけだ。
自分なら一体どんな本をバッグに忍ばせるだろう。思いめぐらせるのも楽しい。立原道造の詩集なんて狙いすぎだろうか。とりあえず赤いモレスキンに「好きなもの」「嫌いなもの」を書き留めることから始めてみたくなる。偶然の出会いとは、まだ書かれていない小説のようなもの。実を結ぶかどうかは、そこから先の行動次第。ちなみにこの本の著者の名前も「ローラン」。どこまでもウィットの利いた1冊なのである。

文:瀧晴巳