ロベール・ドアノーと言えば、パリの恋人たちの姿をシンボリックにとらえた代表作、「パリ市庁舎前のキス」があまりにも有名だ。『ドアノーの贈りもの 田舎の結婚式』は、市井の人々の喜怒哀楽を見つめたフランスの国民的写真家の知られざる素顔が垣間見える1冊だ。
月明かりの下、どこかへ向かおうとしている若い恋人たち。彼らは一体何者なのか。ミステリアスな一枚の写真に秘められた物語が、この写真集で初めて明らかになった。エッセイストの平松洋子さんは、パリ郊外にあるドアノーのアトリエを訪ねた際、娘のフランシーヌさんから、実はあの写真は未公開のあるシリーズの中の1枚であることを打ち明けられる。

第二次世界大戦中、ドアノー一家はドイツ軍のパリ侵攻を逃れ、サン・ソヴァン村に疎開していた。この時、身を寄せていたモティヨン家の娘アニーが結婚するという知らせを受け、ドアノーは久しぶりに村へと向かう。
花嫁は18歳。花婿は24歳。
最初の一枚は、この写真集の表紙を飾っている、結婚式の身支度をする初々しいふたりの様子を撮影したものだ。婚約者たちが結婚の約束を交わした場所でわら束を燃やすのが、この地方の風習だという。田舎ののどかな小道、燃えさかるわら束の前を、花嫁とその父を先頭に婚礼の行列がゆっくりと進んでいく。やがてふたつの椅子を白いリボンで結んだ簡素な境界線が見えてくると、花嫁がテープカットをして、行列はさらに街へと向かう。街の人々が立ち止まって、見守る中、花婿の待つ村役場で合流すると、慎ましやかな結婚式が行われる。

ふたりがはじめて口づけを交わした場所で燃やされたわら束の横を、再び行列が通り過ぎていく。披露宴の会場は、農場内にしつらえた大きなテントの中だ。記念撮影が終われば、宴もたけなわ。いまだ独身の新郎の兄。男性からの誘いを待つ独身の女性たち。ケーキに灯るろうそくに照らされた新郎新婦の顔。ドアノーが遺した説明を読みながら、写真をたどっていくと、まるで映画さながら、神聖で特別な一日が浮かび上がってくる。
ドアノーの写真を見る時、ハッとさせられるのは、凡庸でありふれているはずの我々の人生に、これほど胸打たれる一瞬一瞬が刻まれていることを思い知らされるからだろう。平凡な毎日に潜んでいる、とてつもないポテンシャルを、繰り返しに倦んだ私たちは、なぜか忘れてしまうのだ。ここに映っている人たち、ひとりひとりの表情の気高さはどうだろう。今を生きる私たちは、果たしてこんな顔を持てるだろうか。1951年、彼らは、皆、痛ましい戦争を乗り越えて、この佳き日を迎えた。この時、ドアノーは39歳。同年、ニューヨーク近代美術館で開かれた「フランスの写真家5人」展の出展者に選ばれている。
そして、この写真集の最後を飾る一枚こそ、月明かりの下、手と手をとりあって、どこかへ向かう若いふたりの写真なのだ。晴れの日の一部始終を目撃した読者なら、彼らがどこに向かうのかを、もう知っているはずだ。彼らの行く先は、私たちもよく知っている「日常」である。ありふれた日々が、ふたりを待っている。その素晴らしさを、どうか忘れないように。当たり前が当たり前でなくなった時のことを、ここに映っている人たちは、ひとり残らず、よく知っているから。それでも人間は乗り越えてきたのだ。
はじめて口づけを交わした場所に火をともして、はじめて誓いを立てた場所に火をともして、婚礼の行列が行く。ニューノーマルの時代に新しい門出を迎える人がいたら、贈りたくなる1冊だ。

ロベール・ドアノー著 平松洋子監修 河出書房新社刊 ¥2,640
文:瀧晴巳